MEMENTO MORI AT CARPE DIEM

ποιέω καί ἑρμηνεύω

eine süße Vergangenheit

Zur heil’gen Nacht erinnr’ ich mich
ja meines schönen G’dächtnisses,
Unendlich ewig soll es bleiben,
Niemand mit der Hand anzurühren.

 



追憶歌

浄けき夜に我心抱く
嗚呼,麗しの来し方を
果てなき永遠(とわ)にありありて
何人も触れるを拒まれり。

 

 

【解題】
聖夜の厳粛で温かい雰囲気を受けて,過去を精算すべくある思い出に浸る。それは決して快活で愉快なものばかりではないかもしれない。時には苦しみ,悩み,憤る心持ちを表明していたかもしれない。しかし今となってはすべてが美しい思い出に変わってゆく。その美しい思い出がそのまま永遠に活き続けてほしいと願う自分にとって,誰一人手を触れてほしくない,言及してほしくない過去の存在であってくれと願うしかない。そんなロマンティックな気持ちを詩に託してみました。

 

森のしあわせ

森は騒めいて

夜の登張が忍び寄る

しあわせな木々は耳を澄まし

互いにそっと撫で合う。

ごらん小枝の下を

そこに私はお前と佇む

そこの私、私そのものは

ただただおまえのものだ。

 

Richard Strauss の歌曲のテクストにもなった Richard Dehmel の詩、Waldseligkeitを訳してみました。

原文は以下の通り。この詩は全体が弱強格(Jambus)になっています。大体4歩格(Tetrameter)ですね。

互いに愛撫しあう Bäumen (木々)とは擬人化しているのでしょう。mein と Dein が交錯するのは Tristan und Isolde にもみられる激しい情愛の描写です。他者として認識しつつ自分と同化させる行為こそが情愛だと考えられるでしょう?

 

Der Wald beginnt zu rauschen,

Den Bäumen naht die Nacht,

Als ob sie selig lauschen,

Berühren sie sich sacht.

Und unter ihren Zweigen,

Da bin ich ganz allein,

Da bin ich ganz mein eigen:

Ganz nur Dein!

aus Richard Dehmel „Erlösungen“ (1891)

 

この情愛を口語で意訳すればこんな詩になるでしょう。とっても妖艶です。

 

森がザワザワし始めて、

木々たちに艶やかな夜が近寄ってきた。

恋人の囁きに耳を澄ますように

求め合う悦びが互いを愛撫する。

小枝の下をごらんなさい

そこにあなたと二人っきり

そこで私という自分は

ただただあなたのものになるの。

URBS K

velum noctis urbem tegit
sed in urbe nemo dormit
in profundo luces videmus
tenebrarum stat dominus

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夜の帳、街を覆ふ
されど何人もこの街は眠らぬ
深淵の中に灯火を見出せば
闇の主人、聳え立てり

 

【解題】
深夜3時,副業中に覗いた眼下の歌舞伎町は深夜にも拘わらず
高層ビル群の赤い灯火が美しいほどにちりばめられていた。
それは夜空に星が輝いているのに似ていた。
しかしながら,この町は眠らない。東宝シネマズの前には夜中でも
男女の駆け引きが,行き場のない人々の路上で眠る姿が見える。
そんな救いのない光景の闇夜の空には
きっと我々には見えないデーモンが屹立しているのだろう。
ムルナウの映画「ファウスト」の冒頭,メフィストが街の背後に立ち,
疫病を流行させる場面を思い出した。



リンケウスの詩

見るために生まれ,
物見よと定められん,
この塔にかけ誓わん
世の中いと麗し。

 

じっと眺むる彼方,
しかと望むる此方,
月も星も,
森も鹿も。

 

而してなべて何処(いずく)
永遠(とわ)の飾り映らん
己の好むが如く,
吾は吾も好まん。

 

汝幸(さち)なる眼(まなこ),
汝(な)が目で見たるは
望むが如く
げに美しかりき!

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Λυγκεύς(リンケウス)はギリシアペロポネソス地方メッセーネー王アパレウスの息子と言われている。リンケウスの名前がλύγξ(lynx=大山猫)から来ているように,リンケウスは夜目が効く視力の持ち主。森に隠れていた敵兄弟を看破し兄と一緒に倒した事になっている。GoetheはFaust第2部第3幕でこの人物を鐘楼守として登場させ,自らの領民・領土の監視役をさせる。そこで独白するのがこの台詞なのだ。この後リンケウスはフィレモンとバウキスの悲劇を目にし嘆く。

よく Goethe のことを Augenmensch(目の人)と形容する。彼は見ることで信じ,考えた。色彩論や原植物の発見など自らの眼を通して神秘的とも言える発言をした。それが例え自分以外の人間には見えないものであっても,彼の目には実在していたのだ。この感性こそが詩人の目なのだろう。

この詩のリズムは
|弱強弱|弱強弱|
|弱強弱|弱強|
の4歩格を2回繰り返し,4連作る事で構成されている。通常ギリシア由来の韻律では
|強弱弱| の組み合わせδάκτυλος(ダクテュロス) かその逆の|弱弱強| の組み合わせἀνάπαιστος(アナパイストス)はあるが、このような|弱強弱|の組み合わせはない。
いわばGoethe の独創的韻律と言えるか。和訳にあたっては原詩の韻を出来るだけ合わせてみた。

 

原詩は以下の通り

Zum Sehen geboren,     |弱強弱|弱強弱| (韻は[oːrən])a
Zum Schauen bestellt,     |弱強弱|弱強|   (韻は[əlt])    b
Dem Turme geschworen    |弱強弱|弱強弱| (韻は[oːrən])a
Gefällt mir die Welt.       |弱強弱|弱強|   (韻は[əlt])    b

 

Ich blick in die Ferne,         |弱強弱|弱強弱| (韻は[ɛrnə])c
Ich seh in der Näh,          |弱強弱|弱強|     (韻は[ɛː])     d
Den Mond und die Sterne,   |弱強弱|弱強弱| (韻は[ɛrnə])c
Den Wald und das Reh.     |弱強弱|弱強|     (韻は[eː])     d

 

So seh ich in allen                  |弱強弱|弱強弱| (韻は[alən])e
Die ewige Zier                           |弱強弱|弱強|   (韻は[iːə])    f
Und wie mir’s gefallen             |弱強弱|弱強弱| (韻は[alən])e
Gefall ich auch mir.                  |弱強弱|弱強|   (韻は[iːə])    f

 

Ihr glücklichen Augen,
Was je ihr gesehn,
Es sei wie es wolle,
Es war doch so schön!

Kundryの独白

Wagner 最後の楽劇 Parsifal に登場する唯一の女性キャスト、Kundry 。伝説によるとかつてイエスを嘲笑したとして死ぬ事を許されない天罰を受ける。

時に Amfortas のために アラビアまで薬草を探すと思えば,Klingsor の魔法で騎士を誘惑し堕落させる悪女。
Ich bin müde. (疲れたわ)が Kundry のキーワードだという。脚本を読めばこの不死の Kundry の言動が現代社会に通じる何かを反映しているようにも読める。平易な台詞として和訳してみた。

Kenntest du den Fluch,
der mich durch Schlaf und Wachen, durch Tod und Leben,
Pein und Lachen,
zu neuem Leiden neu gestählt,
endlos durch das Dasein quält!
Da lach' ich - lache -
Kann nicht weinen, nur schreien, wüten, toben, rasen.

これは天罰なのよ。
寝ても覚めても,生きてても死んでも,
心痛くても笑顔でいても
新たな苦しみが次々と私を鍛えて平気にさせるの。
終わりなく,私がいる限り,苦しみが生まれるの。
だから,笑うのよ,ハハハ…
涙なんか流せない,叫んで,怒って,暴れて,ただ荒れるだけ。

魔性の女であり、時に聖女のように献身する Kundry は魅力的なキャラクターである。アンパンマンロールパンナちゃんも似ている。救われる事を夢見ながらもそれは叶わぬ事と自暴自棄になる。しかし悪をなすと自戒が襲って苦しみのうちに誠をなそうと献身する。その繰り返しで生き続ける辛さ。Ich bin müde.「疲れたわ」はこのタイプの人間が抱える恒常的精神状況だろう。現代人なら自殺しようとしても死ねないタイプだ。

さて、Kundry を救う手立てはないのだろうか?

妾を,な忘れそ

妾地に横たわるれば、

我が過ち

汝が胸を惑わすべからず。

妾を,な忘れそ、

我が定め,な覚えそ。

 

以下 原文

When I am laid in the earth,

May my wrongs create

No trouble in thy breast;

Remember me, but ah!

Forget my fate.

--- libretto by Nahum Tate (1652-1715), composed by Henry Purcell (1659-1695)

 

パーセルの有名なオペラ『ディドとエネアス』。バロックオペラの最高傑作の一つである。この中の「ディドのlament(嘆き)」と呼ばれるアリアは大変有名でバロックオペラの歌手ならば一度は歌いたい,叙情に溢れる曲だ。愛し合うディドとエネアスが魔女によって引き裂かれ,ディドは去って行くエネアスに向かってこの曲を歌い,悲しみに暮れて死んでしまう。運命の悪戯に抗えずに引き裂かれる悲しみをディドは

Remember me (私を忘れないで)

と謳いつつも,

forget my fate (私の運命は忘れて)

と自分自身は思い出してほしいが,自分の身の上は忘れてほしいという,愛する人への記憶のあり方を懇願している。女心,というか,「愛はかく美しくあれ」を望む姿に恋愛至上主義のストーリーが見られる。アリア重視のバロックオペラであるからこそ,現代にも訴えかけられる深い感性が聞こえてくる。

訳文はバロックオペラにふさわしく,古文の文体を採用してみた。とくに remember me と foget my fate はともに 「な...そ」(禁止表現)の手法で,な忘れそ,な覚えそ,としてみた。「妾をな忘れそ」=「私を忘れないで」。古語で「覚ゆ」は「思い出して語る」の意味なので,「我が定めな覚えそ」は「私の運命を思い出して語らないで」という意味になる。

 

この曲には名演奏が多いが,異端ではあるが世界的に有名なのが Klaus Nomi が録音したものだ。人気が絶頂期になった Nomi だが,すで AIDS に罹患し体調が絶不調,声も医療行為によってどうにか保たれている状態。そんな行く末を察知したかのように,Klaus Nomi はこの曲を選んで歌うのである。彼の発声の Remember me! はあまりにも悲しい。目の前にある確実な「死」に対峙して歌う Remember me! は壮絶すぎる。

 

youtu.be

誕生の意味づけは難しい

DIE STIMMEN DER UNGEBORENEN

von oben

Hört, wir gebieten euch:
ringet und traget,
dass unser Lebenstag
herrlich uns taget!
Was ihr an Prüfungen
standhaft durchleidet,
uns ist's zu strahlenden
Kronen geschmeidet!

 

生まれていない者たちの声
(天上から)

さあ,お願いです,
輪になって抱き合いましょう
そうすれば人生の昼が私たちを
明るく輝かせるでしょう!
お二人はこの試練に
じっと堪えられた,
それは今私たちに
光彩放つ冠へと鍛えられた!

 

youtu.be


Richard Straussのオペラ Die Frau ohne Schatten (影のない女)の一節。


神の娘ゆえ影を持たない皇妃が、父カイコバートの神託に従い、影を得るために人間の世界へ降りてきて、染め物師バラクの妻から影を奪おうとする。しかし人々の一生懸命に生きる姿を見て奪うのを断念する。一方皇妃との間に子どもができず3年経ったために運命通り皇帝がすでに岩になっているのだが、皇妃の影略奪断念によって何故か岩から元の姿に戻る。そして皇妃は影を得る。実は二人はカイコバートの齎した試練を克服したのである。

試練を克服したこの二人に、天上から話しかけてくるのが、この一節を歌う「生まれていないものたち」である。この後、試練を超えた二人の間から彼らが生まれてくるのであろう。

作家 Hugo von Hofmannsthal (1874-1929)はRichard Straussの求めに応えて,現代版(1919年当時)魔笛を作った。それがコレ。確かにタミーノ=皇帝,パミーナ=皇妃,パパゲーノ=バラク,パパゲーナ=バラクの妻と対応しているし,ザラストロと夜の女王の合わさったのがカイコバートか?

試練を乗り越えて光明を得るのは同じだ。ただパパゲーノとパパゲーナの二重唱で沢山子どもを作るぞ!っていう部分が,この皇帝と皇妃に絡む「まだ生まれていない子どもたち」の場面になっているのか?

こういう話で出てくる子どもは幸福のシンボルだ。生まれたくない子どもという登場人物はまぁ出てこない。20世紀初頭迄のオペラの世界ではこういう価値観が正攻法なのだろう。

 

文学や演劇の世界でもどうかな?生まれたくない子どもが登場する作品あるかな?
お腹の中で(外に出たくない。出来ればずっと生まれたくない。)そんな意志を持つ胎児の話があったら読んでみたいものだ。

 

映画の世界ではエイリアンとかモンスター・パニックみたいに人のお腹を食い破って生まれる怪物(異星人)というジャンルがあって,アレは生まれることで見るものにショックを与える映像だ。出来れば生まれさせたくない気持ちになる後味の悪さが売りだ。

 

O, ich wäre nie geboren! (ああ,俺は生まれてこなければよかった。)は脱獄を拒む恋人グレートヘンを目にしてファウストが独白した台詞だ。生まれたことを後悔する程の強い絶望とは,具体的にどんな内容だろう?

自分の配偶者は確かにこの強い絶望に苛まれていた。それは自分の生まれるきっかけが,単に家に帰らない夫を家に帰ってくるように引き止めるために子供を設けたに過ぎなかったからだった。「私は生まれてこなくなってもよかったのよ。」自分自身が存在する理由が自分とは関係ない期待であったこと,それは確かに辛いだろう。

 

誕生は神秘的であると同時に様々な運命を背負って意味づけされる。その意味は決して肯定的なものだけではない。否定的なものもある。優生保護法によって誕生を取り消されるのも,また犯罪に巻き込まれて身籠もってしまった場合の処置も決してスッキリ解決とはなり得ない。祝福されない誕生と誕生したくても出来なかった命があるとすれば,それらを満足させる摂理はないのだろうか。

不死鳥の如く炎より生まれぬ——阿呆物語の口絵

冒険者
ジンプリチスムス

余は不死鳥の如く炎より生まれぬ。
宙を飛翔せるが,何も失われぬ。
余は海を渡り歩き,其処彼処(そこかしこ)陸(くが)を彷徨い行かん。
かかる周りに群がることどもを余は知らしめん。
悲しませるもの数多(あまた)あれど,楽しませるもの希(まれ)なり。
其は如何なりき?余が此の書物へしかと記したり。
これもて読者諸氏,余の如くさあ為すべし,
愚を遠ざけ,安寧に生くべし。

 

 

Hans Jakob Christoffel von Grimmelshausen (1622-1676)の有名な小説で,現在でも唯一読み継がれているドイツバロック小説『阿呆物語』の表紙の文章を訳してみた。以下原文。

 

Abenteuerlicher Simplicismus

Ich ward gleich wie Phoenix durchs Feuer geboren.
Ich flog durch die Lüfte? ward doch nicht verloren.
Ich wandert im waszer ich streifte zu Land.
In solchem Umschwermen macht ich mir bekannt
was oft mich bertrübet und selten ergetzet.
was war das? Ich habs in dies Buch hier gesetzet.
Damit sich der Leser gleich wie ich itzt thu,
entferne der Torheit, und Lebe in Ruh.

 

表紙の印刷ではあたかも散文のように,ベタで植字されているが,17世紀の文学で韻を意識しないなどほぼあり得ない。確かにリズムは整っていない。しかし韻は a-b-c-d と平韻になっている。よって訳文もそれに従った。

著者の Grimmelshausen は10歳で軍隊に誘拐され,以後30年戦争を兵士として遍歴した。30年戦争の終結と共に行政官として働いた。この『阿呆物語』は一見ピカレスク小説のようにみえるが,実は著者本人の理不尽な環境を生き抜いた冒険物語であり,読むにつれて寓話的になりドイツの『ロビンソンクルーソー』になっていく。

長い長い物語——岩波文庫で3巻ある——をこの表紙はたった8行で表現している。見事だ。

 

「間抜けづらして,ドジ踏んだら今度こそ尻っぺた腫れ上がるほどぶん殴るぞ!」

「なりばかり大きくなりやがって…」

「この助平小僧!お前と乳繰り合ったこの売女もろともお前を捻り殺してやる。」

本文は極めて粗野な言葉が使われて,10歳の時に意志に反して掠われて軍人として従軍しなくてはならなかった著者の悲哀が直接的にわかる。暴力を受けていない者が暴力を記すのとは違い,日常的に殴られ,罵倒され,生きるために略奪し,女を抱く毎日。人権などという概念は全く存在しない17世紀に,人として生きることに憧れながら鬼畜のような生活を余儀なくされた主人公の Bildungsroman である。様々な経験をして Simplicismus は最後に人から遠ざかり隠者の生活を選ぶ。

「さらば,人の世よ!お前は信頼出来ず,お前に期待出来ることは一つとしてない。お前の宿では過ぎ去ったものは永久に滅び去り,眼前にあるものは刻々と亡びつづけ,来るべきものはついに来たらず,ゆるぎなく見えるものも崩れ,砕ける日がないと見えるものも砕け散り,永遠につづくと見えるものも亡び,こうしてお前は死者の中の死者であって,私たちはお前の宿で百年の齢を重ねても一時間の生命をも生きることができない。」

——なんたる壮絶な嘆き,諦念の境地であろうか。生きづらい世の中をしたたかに生き抜いた主人公だからこそ,最後は隠遁する。今,様々な事情で生きづらいと苦しんでいる人々に,Simplicismus の物語は勇気を与える,否共感を与えるかもしれない。ピカレスク小説的悪行の数々は,善悪を意識して行為しているのではなく,地獄のような世の中で少しでも光明を見いだして生きるためのスパイスなのである。

著者は非常に教養があり,本文にはセネカの言葉やミトリダーテス王の話,古代羅馬の皇帝たち,古代希臘の哲人たちのエピソードが数多く語られる。そうした教養を以て有事の智恵と役立てる主人公。Sinplicismus の前には "Parzival" があり,Simplicismus の後には "Wilhelm Meister" が続く,とドイツ文学者の手塚富雄は考えたが,まさにその通りだと思う。

 

原文を掲げたが,文法も現代の標準ドイツ語とは異なるし,正書法も定まっていない17世紀のドイツ語ゆえ,以下に標準ドイツ語に直したものを掲載しておこう。

 

Ich wurde wie Phönix durchs Feuer geboren.
Ich flog durch die Lüfte? Wurde doch nicht verloren.
Ich wandert im Wasser, ich streifte durchs Land.
In solchem Umschwärmen machte ich mir bekannt,
Was oft mich betrübt und selten ergötzt.
Was war das? Ich hab’s in dieses Buch gesetzt.
Damit sich der Leser wie ich jetzt tu,
entfern die Torheit, und leb in Ruh.

 

君知るやかの国を(ミニヨンの歌より)

Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn,

Im dunkeln Laub die Gold-Orangen glühn,

Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,

Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht ?

Kennst du es wohl ?

Dahin! dahin

Möcht ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn.

ˉˉˉˉˉ|

この詩は『ウィルヘルム・マイスターの修行時代』に登場するミニヨンが最初に歌う歌。
格五歩格はシェイクスピアが盛んに使い、またミルトンは『失楽園』に、ダンテ、ペトラルカも使用した。
赤い母音が強格の部分。二音節以上の植物の単語,例えば Zitronen, Orangen, Myrte, Lorbeerをうまく選んでリズムを整えている。
3行目のblauは変化語尾-enを省略しないことで vom blau-en Him-mel wehtと弱強格を守る。
最終行のziehenと言う動詞は自動詞だと引っ越す,移り住むの意味がある。ここではミニヨンがかの国,イタリアへ一緒に行って暮らしたい,という願いを込めて歌っているので,単に「あなたと行きたい」ではない。「あなたと行ってそこで暮らしたい」なので,文語では平凡な「移」ではなく「遷」という漢字で,口語では「住みたい」という動詞で表現した。

 

(文語拙訳)
君知るやかの国を,檸檬花咲くかの国を,
色濃き葉陰に橙(だいだい)輝く
風ひとつ天(あめ)より凪(な)ぐかの国を。
銀梅花(ミルテ)密やか,月桂樹(ロリエ)聳ゆか?
君知るや,よく知るや?
彼の国ヘ,彼の国へ
愛(いと)しき汝(なれ)と,我遷(うつ)りてむ。

 

文語拙訳は五七調でリズム整えた。弱強の押韻は赤の語頭音を強とした。
最終行のみ,「なれ」に呼応して「われ」を出してみた。ここだけ弱強をずらした。
つまり音読時に「われ」のあと一息入れるように読む。
「きみるや(5) かのにを(5) れもんく(5) かのにを(5)」
「いろこきかげに(8) だいだいがやく(8)」
「かぜとつ(5) あめよりなぐ(6) かのにを(5)」
「みるてそやか(7) ろりえびゆか(7)」
「きみるや(5) よくるや(5)」
「かのにへ(5) かのにへ(5)」
「いとしきれと(7) れうつりてむ(7)」

 

口語拙訳はストレートな意味伝達を目指した。

(口語拙訳)
ご存知かしら、レモンの花咲き、
深緑の間から黄金のようなオレンジが光る、
青空からやさしい風が届くあの土地を。
ミルテは音もたてずに、ロリエは見上げるように茂っているのかしら?
あなたはご存知、本当に?
あの場所へ、あの場所へ
愛しいあなたと私は住みたい。

『欺瞞の妄想』より

Als ich mir mit Messer das Bein verletze,

Erschien aus der pechschwarzen Dunkelheit bella umbra.

“sanquis liquor extraordinarius est.” sagte sie.

Und sie leckte das Blut ab, mein Bewusstsein war weg…

Danach kann ich mich gar nicht mehr erinnern.

aus “error illusionis”

うっかり剃刀で肌を傷つけた瞬間,

漆黒の暗闇から bella umbra (美しき影)が現れる。

"sanguis liquor extraordinarius est." (血は特別な液体ですわ。)

ペロリと舐められた途端に意識がなくなった。

……後のことは覚えていない。

-- error illusionis (欺瞞の妄想)より--