MEMENTO MORI AT CARPE DIEM

ποιέω καί ἑρμηνεύω

糸の太陽たち

幾筋もの糸の陽光は
灰のように黒い荒涼に注がれている。
木のごとく
聳え立つひとつの思いが
光の音を手に収める:それは
人々のあちらで今も吟じられるその
詩だ

 

これは Paul Celan (1920-1970) の晩年の詩集 "Fadensonnen" からの詩。今日Berliner Philharmoniker が初演した曲のテーマがコレだったので、早速短い原詩を読んでみた。

 

Fadensonnen
Über der grauschwarzen Ödnis.
Ein Baum- 
Hoher Gedanke
Greift sich den Lichtton: es sind
Noch Lieder zu singen jenseits
Der Menschen

 

Celan は自由詩の詩人だ。だから韻律を形式で見ても意味がない。ただ長い文になっている3つの詩行の最後の単語 Ödnis, es sind, jenseits がそれぞれ2音節で [øːtnɪs], [ɛszɪnt], [jeːnzaɪts]と歯音の子音で終わっている。

ご存じの方も多いと思うが,Celan ——これは本名の Ancel をユダヤ系だと分からぬようにアナグラム化したものだが—— は両親をルーマニア国内の強制収容所で亡くしている。本人は強制労働をさせられた。当時ルーマニアナチスの枢軸国であった。

Celanは恐怖におののきおながら非業の死を遂げた両親や友人,同胞達と現代を結びつける媒介のような詩を書くのが特徴。この「糸の太陽たち」も現世の前に横たわる「灰のように黒い荒涼としたところ」に照射される糸のような幾筋もの陽光こそ,亡くなった者たちが暮らすあの世からのメッセージであり,荒涼とした中にも存在する「聳え立つ思い」がその陽光から「光の音」を捉えて自分の中に取り込んでいく。その音とは冥府で謳われ,吟じられているに違いない言葉のかたまり,すなわち Lieder (詩)なのである。あの世に逝ってしまった人々の光の音が,荒涼に注ぎ込まれることで冥土と現実界が結びついているのだ。死者を悼むのではなく,辛い現世にむけて死者達が温かい陽光の糸を垂らしてくれるのだ。生きた人々が死者を弔うのではなく,死者が生きている人々へ勇気を差し伸べてくれるのだ。Celan の詩は一方的な回想ではなく,積極的な二つの世界のコミュニケーション(対話)であることが素晴らしい。

2025年1月12日,ベルリン・フィルハーモニーホールで初演された Donghoon Shin 作曲
Threadsuns für Viola und Orchester(ビオラ管弦楽のための「糸の太陽たち」)のテーマとなったこの詩を読み,曲を聴きながら訳してみた。楽曲自体は現代音楽であるため,メロディーというよりも音の配置,感覚的理解が優先される。しかしCelan の原詩を見て分かるように原詩自体が自由詩であるため,寧ろこの方がしっくりと来る感じが私はする。印象的なのは最後の詩行

Lieder sind noch jenseits der Menschen zu singen

だろう。sein zu  不定詞は受動態+müssen/können の意味を持つが,ここでは詩の書き手の意志が反映されていると考えたい。つまり,

(詩が今も人間の彼岸では謳われているに違いない。)

と決意している。その詩こそが Fadensonnen であり,木の如く高く聳えるひとつの思いが手に入れた光の音なのである。「木の如く高くそびえるひとつの思い」とは何だろう?それは恐らく作者が会話している死者への思い,愛情ではないかと思う。

Celan の詩は半世紀以上前の記憶や,ほこりを被った回想をセピア色に染めて出現させることを拒み,生々しい有機物のような描写で出現させてくれる魅力にみちている。独特の言葉の選択が生きている証拠だ。

Ἀλήθεια

Wenn man gut auch oder böse,
Bleibt es sicher unveränd’rlich,
Dass wir immer Glück nachjagen.
Das muss wahrlich ἀληθής sein.

 

Trochäusでつくったこのドイツ語詩ですが,こんな意味の日本語を考えて独作しました。

 

真理
善人だろうが悪人だろうが
コレだけは確かで変わらない,
いつも幸せを求めてるって事。
きっとコレこそ「真理」に違いない。

 

面白いことに気づいたのですよ。
普通の人は勿論,たとえ悪人と呼ばれる人も,それが悪徳であっても,求めているのは悪徳を得ることでの幸福感なのですよね。

つまり,求めているのは幸福(Glück)即ち εὐδαιμονία なのだ。これが不変であることに気がついた。どのような価値観をしていようとも求めているのが「幸せ感」って不思議ではないでしょうか?これは「真理」だなあ,と思って詩作してみたのですよ。
ここで「真理の」を強調するためにドイツ語の wahr を使わずにここは哲学を思わせるギリシア語 αληθής を使ってみました。表題は「真理」を表す名詞 Ἀλήθεια にしました。

Die See, dran keiner ist. (誰もいない海)

Nun kommt allein Herbst,          |XX|XX|X|

See, dran keiner ist,                        |XX|XX|X|

Man geht an mir vorbei,              |XX|XX|XX|

Als ob er fremder sei.                     |XX|XX|XX|

Vergess’ ich nie dich,                      |XX|XX|X|

Der See versprach ich,                  |XX|XX|X|

Ich nie sterben werde,                    |XX|XX|XX|

Wenn ich auch schwer leide.    |XX|XX|XX|

 

晦日の昼から久しぶりに越路吹雪の録音を聴いている。
幼い頃車の中で両親が聞いていたのですり込まれているのだ。
懐かしくなってカセットの内容をCDに再現して作ったものを聴いている。
そんな中で,忘れられない歌詞が「誰もいない海」だ。
第一連から尋常でない心が見て取れる。

  今はもう秋 誰もいない海
  知らん顔して 人がゆきすぎても
  私は忘れない 海に約束したから
  つらくても つらくても 死にはしないと

これをドイツ語にしたらどうなるか,父の墓参りをして思いついた。
どうにか苦労して韻を合わせることはできた。
リズムは Jambus と Trochäuchs が混濁してしまったが,Dimeter にはなっている。

越路吹雪の歌はこういう恋の歌が多い。昔の歌謡曲シャンソンだからといえばその通りだが,歌詞の情緒がとても好きだ。行間に込められたものが聴く者,読む者の人生の抽斗から取り出される思いがして,切ないがとても感傷的に美しい。

eine süße Vergangenheit

Zur heil’gen Nacht erinnr’ ich mich
ja meines schönen G’dächtnisses,
Unendlich ewig soll es bleiben,
Niemand mit der Hand anzurühren.

 



追憶歌

浄けき夜に我心抱く
嗚呼,麗しの来し方を
果てなき永遠(とわ)にありありて
何人も触れるを拒まれり。

 

 

【解題】
聖夜の厳粛で温かい雰囲気を受けて,過去を精算すべくある思い出に浸る。それは決して快活で愉快なものばかりではないかもしれない。時には苦しみ,悩み,憤る心持ちを表明していたかもしれない。しかし今となってはすべてが美しい思い出に変わってゆく。その美しい思い出がそのまま永遠に活き続けてほしいと願う自分にとって,誰一人手を触れてほしくない,言及してほしくない過去の存在であってくれと願うしかない。そんなロマンティックな気持ちを詩に託してみました。

 

森のしあわせ

森は騒めいて

夜の登張が忍び寄る

しあわせな木々は耳を澄まし

互いにそっと撫で合う。

ごらん小枝の下を

そこに私はお前と佇む

そこの私、私そのものは

ただただおまえのものだ。

 

Richard Strauss の歌曲のテクストにもなった Richard Dehmel の詩、Waldseligkeitを訳してみました。

原文は以下の通り。この詩は全体が弱強格(Jambus)になっています。大体4歩格(Tetrameter)ですね。

互いに愛撫しあう Bäumen (木々)とは擬人化しているのでしょう。mein と Dein が交錯するのは Tristan und Isolde にもみられる激しい情愛の描写です。他者として認識しつつ自分と同化させる行為こそが情愛だと考えられるでしょう?

 

Der Wald beginnt zu rauschen,

Den Bäumen naht die Nacht,

Als ob sie selig lauschen,

Berühren sie sich sacht.

Und unter ihren Zweigen,

Da bin ich ganz allein,

Da bin ich ganz mein eigen:

Ganz nur Dein!

aus Richard Dehmel „Erlösungen“ (1891)

 

この情愛を口語で意訳すればこんな詩になるでしょう。とっても妖艶です。

 

森がザワザワし始めて、

木々たちに艶やかな夜が近寄ってきた。

恋人の囁きに耳を澄ますように

求め合う悦びが互いを愛撫する。

小枝の下をごらんなさい

そこにあなたと二人っきり

そこで私という自分は

ただただあなたのものになるの。

URBS K

velum noctis urbem tegit
sed in urbe nemo dormit
in profundo luces videmus
tenebrarum stat dominus

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夜の帳、街を覆ふ
されど何人もこの街は眠らぬ
深淵の中に灯火を見出せば
闇の主人、聳え立てり

 

【解題】
深夜3時,副業中に覗いた眼下の歌舞伎町は深夜にも拘わらず
高層ビル群の赤い灯火が美しいほどにちりばめられていた。
それは夜空に星が輝いているのに似ていた。
しかしながら,この町は眠らない。東宝シネマズの前には夜中でも
男女の駆け引きが,行き場のない人々の路上で眠る姿が見える。
そんな救いのない光景の闇夜の空には
きっと我々には見えないデーモンが屹立しているのだろう。
ムルナウの映画「ファウスト」の冒頭,メフィストが街の背後に立ち,
疫病を流行させる場面を思い出した。



リンケウスの詩

見るために生まれ,
物見よと定められん,
この塔にかけ誓わん
世の中いと麗し。

 

じっと眺むる彼方,
しかと望むる此方,
月も星も,
森も鹿も。

 

而してなべて何処(いずく)
永遠(とわ)の飾り映らん
己の好むが如く,
吾は吾も好まん。

 

汝幸(さち)なる眼(まなこ),
汝(な)が目で見たるは
望むが如く
げに美しかりき!

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Λυγκεύς(リンケウス)はギリシアペロポネソス地方メッセーネー王アパレウスの息子と言われている。リンケウスの名前がλύγξ(lynx=大山猫)から来ているように,リンケウスは夜目が効く視力の持ち主。森に隠れていた敵兄弟を看破し兄と一緒に倒した事になっている。GoetheはFaust第2部第3幕でこの人物を鐘楼守として登場させ,自らの領民・領土の監視役をさせる。そこで独白するのがこの台詞なのだ。この後リンケウスはフィレモンとバウキスの悲劇を目にし嘆く。

よく Goethe のことを Augenmensch(目の人)と形容する。彼は見ることで信じ,考えた。色彩論や原植物の発見など自らの眼を通して神秘的とも言える発言をした。それが例え自分以外の人間には見えないものであっても,彼の目には実在していたのだ。この感性こそが詩人の目なのだろう。

この詩のリズムは
|弱強弱|弱強弱|
|弱強弱|弱強|
の4歩格を2回繰り返し,4連作る事で構成されている。通常ギリシア由来の韻律では
|強弱弱| の組み合わせδάκτυλος(ダクテュロス) かその逆の|弱弱強| の組み合わせἀνάπαιστος(アナパイストス)はあるが、このような|弱強弱|の組み合わせはない。
いわばGoethe の独創的韻律と言えるか。和訳にあたっては原詩の韻を出来るだけ合わせてみた。

 

原詩は以下の通り

Zum Sehen geboren,     |弱強弱|弱強弱| (韻は[oːrən])a
Zum Schauen bestellt,     |弱強弱|弱強|   (韻は[əlt])    b
Dem Turme geschworen    |弱強弱|弱強弱| (韻は[oːrən])a
Gefällt mir die Welt.       |弱強弱|弱強|   (韻は[əlt])    b

 

Ich blick in die Ferne,         |弱強弱|弱強弱| (韻は[ɛrnə])c
Ich seh in der Näh,          |弱強弱|弱強|     (韻は[ɛː])     d
Den Mond und die Sterne,   |弱強弱|弱強弱| (韻は[ɛrnə])c
Den Wald und das Reh.     |弱強弱|弱強|     (韻は[eː])     d

 

So seh ich in allen                  |弱強弱|弱強弱| (韻は[alən])e
Die ewige Zier                           |弱強弱|弱強|   (韻は[iːə])    f
Und wie mir’s gefallen             |弱強弱|弱強弱| (韻は[alən])e
Gefall ich auch mir.                  |弱強弱|弱強|   (韻は[iːə])    f

 

Ihr glücklichen Augen,
Was je ihr gesehn,
Es sei wie es wolle,
Es war doch so schön!

Kundryの独白

Wagner 最後の楽劇 Parsifal に登場する唯一の女性キャスト、Kundry 。伝説によるとかつてイエスを嘲笑したとして死ぬ事を許されない天罰を受ける。

時に Amfortas のために アラビアまで薬草を探すと思えば,Klingsor の魔法で騎士を誘惑し堕落させる悪女。
Ich bin müde. (疲れたわ)が Kundry のキーワードだという。脚本を読めばこの不死の Kundry の言動が現代社会に通じる何かを反映しているようにも読める。平易な台詞として和訳してみた。

Kenntest du den Fluch,
der mich durch Schlaf und Wachen, durch Tod und Leben,
Pein und Lachen,
zu neuem Leiden neu gestählt,
endlos durch das Dasein quält!
Da lach' ich - lache -
Kann nicht weinen, nur schreien, wüten, toben, rasen.

これは天罰なのよ。
寝ても覚めても,生きてても死んでも,
心痛くても笑顔でいても
新たな苦しみが次々と私を鍛えて平気にさせるの。
終わりなく,私がいる限り,苦しみが生まれるの。
だから,笑うのよ,ハハハ…
涙なんか流せない,叫んで,怒って,暴れて,ただ荒れるだけ。

魔性の女であり、時に聖女のように献身する Kundry は魅力的なキャラクターである。アンパンマンロールパンナちゃんも似ている。救われる事を夢見ながらもそれは叶わぬ事と自暴自棄になる。しかし悪をなすと自戒が襲って苦しみのうちに誠をなそうと献身する。その繰り返しで生き続ける辛さ。Ich bin müde.「疲れたわ」はこのタイプの人間が抱える恒常的精神状況だろう。現代人なら自殺しようとしても死ねないタイプだ。

さて、Kundry を救う手立てはないのだろうか?

妾を,な忘れそ

妾地に横たわるれば、

我が過ち

汝が胸を惑わすべからず。

妾を,な忘れそ、

我が定め,な覚えそ。

 

以下 原文

When I am laid in the earth,

May my wrongs create

No trouble in thy breast;

Remember me, but ah!

Forget my fate.

--- libretto by Nahum Tate (1652-1715), composed by Henry Purcell (1659-1695)

 

パーセルの有名なオペラ『ディドとエネアス』。バロックオペラの最高傑作の一つである。この中の「ディドのlament(嘆き)」と呼ばれるアリアは大変有名でバロックオペラの歌手ならば一度は歌いたい,叙情に溢れる曲だ。愛し合うディドとエネアスが魔女によって引き裂かれ,ディドは去って行くエネアスに向かってこの曲を歌い,悲しみに暮れて死んでしまう。運命の悪戯に抗えずに引き裂かれる悲しみをディドは

Remember me (私を忘れないで)

と謳いつつも,

forget my fate (私の運命は忘れて)

と自分自身は思い出してほしいが,自分の身の上は忘れてほしいという,愛する人への記憶のあり方を懇願している。女心,というか,「愛はかく美しくあれ」を望む姿に恋愛至上主義のストーリーが見られる。アリア重視のバロックオペラであるからこそ,現代にも訴えかけられる深い感性が聞こえてくる。

訳文はバロックオペラにふさわしく,古文の文体を採用してみた。とくに remember me と foget my fate はともに 「な...そ」(禁止表現)の手法で,な忘れそ,な覚えそ,としてみた。「妾をな忘れそ」=「私を忘れないで」。古語で「覚ゆ」は「思い出して語る」の意味なので,「我が定めな覚えそ」は「私の運命を思い出して語らないで」という意味になる。

 

この曲には名演奏が多いが,異端ではあるが世界的に有名なのが Klaus Nomi が録音したものだ。人気が絶頂期になった Nomi だが,すで AIDS に罹患し体調が絶不調,声も医療行為によってどうにか保たれている状態。そんな行く末を察知したかのように,Klaus Nomi はこの曲を選んで歌うのである。彼の発声の Remember me! はあまりにも悲しい。目の前にある確実な「死」に対峙して歌う Remember me! は壮絶すぎる。

 

youtu.be

誕生の意味づけは難しい

DIE STIMMEN DER UNGEBORENEN

von oben

Hört, wir gebieten euch:
ringet und traget,
dass unser Lebenstag
herrlich uns taget!
Was ihr an Prüfungen
standhaft durchleidet,
uns ist's zu strahlenden
Kronen geschmeidet!

 

生まれていない者たちの声
(天上から)

さあ,お願いです,
輪になって抱き合いましょう
そうすれば人生の昼が私たちを
明るく輝かせるでしょう!
お二人はこの試練に
じっと堪えられた,
それは今私たちに
光彩放つ冠へと鍛えられた!

 

youtu.be


Richard Straussのオペラ Die Frau ohne Schatten (影のない女)の一節。


神の娘ゆえ影を持たない皇妃が、父カイコバートの神託に従い、影を得るために人間の世界へ降りてきて、染め物師バラクの妻から影を奪おうとする。しかし人々の一生懸命に生きる姿を見て奪うのを断念する。一方皇妃との間に子どもができず3年経ったために運命通り皇帝がすでに岩になっているのだが、皇妃の影略奪断念によって何故か岩から元の姿に戻る。そして皇妃は影を得る。実は二人はカイコバートの齎した試練を克服したのである。

試練を克服したこの二人に、天上から話しかけてくるのが、この一節を歌う「生まれていないものたち」である。この後、試練を超えた二人の間から彼らが生まれてくるのであろう。

作家 Hugo von Hofmannsthal (1874-1929)はRichard Straussの求めに応えて,現代版(1919年当時)魔笛を作った。それがコレ。確かにタミーノ=皇帝,パミーナ=皇妃,パパゲーノ=バラク,パパゲーナ=バラクの妻と対応しているし,ザラストロと夜の女王の合わさったのがカイコバートか?

試練を乗り越えて光明を得るのは同じだ。ただパパゲーノとパパゲーナの二重唱で沢山子どもを作るぞ!っていう部分が,この皇帝と皇妃に絡む「まだ生まれていない子どもたち」の場面になっているのか?

こういう話で出てくる子どもは幸福のシンボルだ。生まれたくない子どもという登場人物はまぁ出てこない。20世紀初頭迄のオペラの世界ではこういう価値観が正攻法なのだろう。

 

文学や演劇の世界でもどうかな?生まれたくない子どもが登場する作品あるかな?
お腹の中で(外に出たくない。出来ればずっと生まれたくない。)そんな意志を持つ胎児の話があったら読んでみたいものだ。

 

映画の世界ではエイリアンとかモンスター・パニックみたいに人のお腹を食い破って生まれる怪物(異星人)というジャンルがあって,アレは生まれることで見るものにショックを与える映像だ。出来れば生まれさせたくない気持ちになる後味の悪さが売りだ。

 

O, ich wäre nie geboren! (ああ,俺は生まれてこなければよかった。)は脱獄を拒む恋人グレートヘンを目にしてファウストが独白した台詞だ。生まれたことを後悔する程の強い絶望とは,具体的にどんな内容だろう?

自分の配偶者は確かにこの強い絶望に苛まれていた。それは自分の生まれるきっかけが,単に家に帰らない夫を家に帰ってくるように引き止めるために子供を設けたに過ぎなかったからだった。「私は生まれてこなくなってもよかったのよ。」自分自身が存在する理由が自分とは関係ない期待であったこと,それは確かに辛いだろう。

 

誕生は神秘的であると同時に様々な運命を背負って意味づけされる。その意味は決して肯定的なものだけではない。否定的なものもある。優生保護法によって誕生を取り消されるのも,また犯罪に巻き込まれて身籠もってしまった場合の処置も決してスッキリ解決とはなり得ない。祝福されない誕生と誕生したくても出来なかった命があるとすれば,それらを満足させる摂理はないのだろうか。