MEMENTO MORI AT CARPE DIEM

ποιέω καί ἑρμηνεύω

Vergangenheit —— 過ぎゆくもの von Dietrich Bonhöffer

「過ぎゆくもの」

行ってしまったんだね、愛しい幸せ、そして辛く愛しい痛みよ。

お前を何と名づけたらいいんだ?災い、人生、至福、

僕自身の一部、僕のこころ、ーーそれが過ぎ去ったものになるのかい?

ガチャリと鍵の閉まった扉。

コツコツコツコツーー足音はゆっくりと遠のき、消えて行く。

僕に残っているのは何?喜び、苦しみ、願望

これだけはわかっている、全てみんな滅亡

 

ナチスの反骨の牧師,Dietrich Bonhöffer がヒトラー暗殺に関与している野ではないかと疑われ,ベルリン・テーゲル刑務所に収監されていた時の詩 Vergangenheit の第1連です。原文は以下の通り,

 

Vergangenheit

Du gingst, geliebtes Glück und schwer geliebter Schmerz.

Wie nenn’ ich dich? Not, Leben, Seligkeit,

Teil meiner selbst, mein Herz, – Vergangenheit?

Es fiel die Tür ins Schloß,

ich höre langsam Schritte sich entfernen und verhallen.

Was bleibt mir? Freude, Qual, Verlangen?

Ich weiß nur dies: du gingst – und alles ist vergangen.

 

これは自由詩に近いものですが,最後の2行は Verlangen, vergangen と /angen/ で押韻しています。これを訳詩では「願望」「滅亡」の二語に託しました。

ins Schloß fallen 「錠前が落ちて鍵が掛かる=扉が閉まる」という表現ですが,これを擬態語「ガチャリ」で表してみました。

langsam Schritte sich entfernen und verhallen hören も「ゆっくりと歩みが遠のいて,音が消え失せるのが聞こえる」という表現ですが,これも「コツコツコツコツ」と靴音で臨場感を出してみました。

 

迎え火の不思議

蟷螂の夢や現(うつつ)になりにけり
帽子に止まりし迎え火の夜


【この短歌の解説】
1.変な夢
8/11に見た夢。
車が停車し、助手席に乗っていた自分のシートに緑色の蟷螂を見つけた。
急いで車から出そうとしたが、中々離れず外へ出たのを見る事を逸した。
帰宅して持ち歩いた紙袋に蟷螂が入り込んでいたのを発見、サッシを開けて庭から外に出した。全く唐突に見た夢。
蟷螂は一体誰だったのだろう?何の知らせだろうか?
それとも自分の思い込みか?

2.副業中に現る
不思議なのが、今日(8/13)副業中の建物内に一匹の鮮やかな緑の蟷螂が現れた。
お盆という事もあって、同僚の一人が外の草むらに放った。
夜自分が屋外で仕事をしていたら、退勤する従業員さんが、「帽子の上…」って言うので帽子を見たらなんと先程の蟷螂が止まっていた。——飛んできた?
2日前の夢の蟷螂を思い出さずにはいられなかった。

東京の月遅れ盆の迎え火に現れた蟷螂。
これは誰かの化身か?
それとも誰かについての虫の知らせか?
なぜ緑色の蟷螂なのだろう?
とてもミステリアスだと思い、短歌にしてみました。



大地の歌 第3曲 青春について

Mitten in dem kleinen Teiche
Steht ein Pavillon aus grünem
Und aus weißem Porzellan.
小さな池の真ん中に
緑と白の瀬戸ものの
四阿一つ、ここにあり。

Wie der Rücken eines Tigers
lbt die Brücke sich aus Jade
Zu dem Pavillon hinüber.
虎の背に似た
翡翠の円橋
四阿に懸る。

In dem Häuschen sitzen Freunde,
Schön gekleidet, trinken, plaudern,
Manche schreiben Verse nieder.
亭には友がき居まして
装い、杯を戴き歓談す。
皆詩を詠み愉しみたり。

 

原詩と言われる李白「宴陶家亭子」には
陶製の四阿も
池を渡す翡翠の橋も
出てこない。

西洋人の中国趣味そのものか。

この詩をChatGPTに読ませて、描画させたらこうなった。

youtu.be

気遣ひ

キミの指が麗艶に魅せる

その緑玉のこと語らふか?

多くは言葉が要るものだが,

しばし黙すが良い時もある。

 

かう言ふことだ,石の色は

緑碧で眼(まなこ)を素早く回復させる!

でも黙するのだ,苦しみと痛みが

同時に伴うことを。

 

ところで,キミはなぜか知りたいはずだ

キミにそんな力がある理由を!

緑玉の力が眼を回復できるやうに

キミそのものがリスキーなのだよ。」

 

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Goetheイスラームの詩人を真似て『西東詩集』を編んだ。
そこでは12の巻に分かれて詩がちりばめられている。以前 Memento mori at Carpe diem で挙げた「死して成れ,は本当はこうだ!」にある詩も『西東詩集』詩人の巻からの有名な詩だ。

Goetheイスラームの詩人 Hafez (1325-1389)のペルシア語の詩を読んで感激して『西東詩集』を書いた。
残念ながら彼は Hefez が尊敬したペルシアの大詩人 Omar Khayyám(1048-1131)を知らなかったし,有名な『ルバイヤート』も知らなかった。
しかし彼の直感は西洋にはない,Hafez の詩の巧な比喩表現に目を見張ったものと思われる。Hafez の Diwan の主要テーマは恋愛である。

そしてHafez に影響を受けたゲーテのコレも愛の歌である。愛というか、duの存在を恰もfamme fatale の様に賛美しながらも危険視する、恋の駆け引きの詩というべきか。
この時期(1814-15) Goetheは65歳。旅行中に滞在した Willemer の家。そこで世話をしてくれた彼にとっては年齢の半分にも満たない30歳の人妻 Marianne von Willemer に友情とも愛情ともつかない恋をしていた。『西東詩集』は全体的にこの Goethe と Marianne の親しい関係を愛に昇華したものと考えて良いと思う。即ち du (君)とは大方 Marianne のことを指す。

件の詩においてGoetheはエメラルドとそれを身につけている女性(du) を比較している。エメラルドの緑は古来からプラスの意味とマイナスの意味を持つ。その二律背反を彼は詩に上手く利用した。Goetheはdu の魅力的な指に着用させているエメラルド(Smaragd)は“Smaragde“ と複数形になっている。つまり指に装着されたエメラルドの石は1個ではないのだ。大粒のエメラルドのついた指輪をいくつも嵌めているかもしれぬし、または1つの指輪に複数のエメラルドが散りばめられたものかも知れぬ。

また亀裂が多く脆いエメラルド用の特別なカット、エメラルドカットは1500年代からあるそうだ。勿論Goethe の脳裏にあるエメラルドはそのカットによるものだろう。良質のエメラルドをわざわざ楕円形のカボションカットにはしない。

 

65歳のGoethe には49歳の内縁の妻 Christiane がいた。彼女は1816年に51歳で亡くなっているが、尿毒症を患い長い闘病生活にあった。彼が Willemer 夫人と出会った時、Christiane は病中だった。現代人にとっては単なる不倫に見える恋も、当時は貴族の結婚は子孫繁栄と家の安泰のためであり、恋愛とはかけ離れている。そんな貴族の夫人が「愛情」を傾けたがる異性との出会いに心ときめくのは当時ならではの事かもしれない。ただ, Goethe  は恋愛結婚をしたのだから,病中であったとしても Christiane を差し置いて他の女性に熱をあげるのは不謹慎。だからこそ Goethe は恋愛とも友情ともつかない関係に陥ったのかもしれない。

 

原詩は以下の通り

Soll ich von Smaragden reden,
Die dein Finger niedlich zeigt?
Manchmal ist ein Wort von nöten,
Oft ist’s besser, daß man schweigt.


Also sag ich, daß die Farbe

Grün und augerquicklich sei!
Sage nicht, daß Schmerz und Narbe
Zu befürchten nah dabei!”


Immerhin! du magst es lesen!

Warum übst du solche Macht!
»So gefährlich ist dein Wesen
Als erquicklich der Smaragd.«

 

上記の原詩をChatGPTに読ませて、イメージした写実的な絵画を書かせてみた。

最初にこれを描いてくれたが、 Smaragd は高級であればカボションカットではないはずだ、Goethe時代にはもうエメラルドカットあったから修正させた。

おまけに femme fatale なテイストでお願いしたらこんなの描いてくれました。
こういうモデルさんいそうですよね。

 

キミの青い眼

青い瞳で ニッコリと
ボクを見つめる キミがいる
気持ちが高まり 夢見ると
何も言えない ボクがいる

青い瞳の キミのことで
ボクは頭が いっぱいだ
青い想いが 海になり
ボクの心は 溢れんばかり

Heinrich Heine "Neue Gedichte" からの短いがとても愛らしく艶かしい一片。
この詩は尾上柴舟の『ハイネノ詩』では

みどり色濃き君が眼の
やさしく我に向ふとき
ものも言はれずになりにけり
夢見る如きこゝちして

と blau が glün で表現されている。日本語の「あを」とはドイツ語の blau 以上に色彩の幅が広い証かも知れない。

原詩のリズムは基本は「弱強」だが,箇所によっては「弱弱強」になっている部分もある。韻もそれ程厳密に踏んではおらず一行目と三行目は Augen - Sinne で韻になっていない。また五行目と七行目は Augen - Gedanken で末尾の /en/ だけで /gen/ とは踏んでいない。

大雑把だがとても感情のこもった可愛い詩だと思う。

この詩には Richard Strauss (1864-1949) が歌曲に仕立てた作品が有名だが,Strauss の歌曲は少し形式的な感じがしてこの詩の良いところが掴みにくくなっているように思う。もう一人 Fredelick Delius (1862-1934)も曲をつけており,こちらの方が私にはピッタリだと感じる。特に最後の "ergieß sich über mein Herz" が本当に心に青い海が注がれ溢れていく感覚をもたらしてくれるからだ。

私の訳詩は尾上柴舟と同じく,七五調でまとめてある。また,脚韻もできる限り印象づけられる言葉で再現してみた。ただし口語で,どちらかというと歌謡曲にもなりそうな現代口調で,ハイネの抱いた,青い目の女性への想いが口をも閉じさせるその刹那を,まるで喫茶店で向かい合わせに座るカップルのような体験を,日本語にした。

 

youtu.be

Praying for thee to be in peace of soul

Ones I wroot,
I ne have never forgat thee al my lyf.
Therfore, I feste thy birtheday.
I wolde that thou wert in pees of soule.

 

嘗て記しき、
汝(なれ)を生涯忘れまじと。
故に汝が誕辰(たんしん)を寿(ことほ)がん。
汝、心安(うらやす)なれと祈らん。

 

チョーサー風の中英語による作文。

カンタベリー物語』風の装飾をつけてみました。

中英語は、ノルマン征服によりイングランド王がフランス人に代わり,北フランスの方言,ノルマン・フレンチが300年間支配者の言語として君臨したことが原因で今までの古英語が変化した姿なのです。
アングロ・フレンチが大量に流入したため,北ドイツのドイツ語方言に近似していた古い英語は語彙も文法も崩れてしまい,中英語になりました。16世紀には更に変化を遂げて現代の英語の基礎ができあがるのでした。
中英語はまだスペリング通りに発音していたようです。作文したテキストを現代英語に直すとこんな感じです。

 

Once I wrote,
I have never forgotten you all my life.
Therfore, I celebrate your birthday.
I wish that you are in peace.

Aus dem Gedicht "Die Leiden" von Shosho Chino

O weh! Welch eine Sorge
In Grabes dunkle Weite
Furcht vor Jenseitsleben
Schenkt mir doch kein Sterben

ドイツ語詩です。口語に訳してみるとこんな感じです。

嗚呼,なんという憂鬱だ
墓の暗い闇の向こうに行っても
彼岸の世界を恐ろしく思うあまり
私に死すら齎してくれない。

実は茅野蕭々が明治40年4月に発表した「苦悩」という詩の最後の連だけ独訳してみました。

慶應義塾大学初代独文科教授の茅野蕭々(1883-1946, 本名は儀太郎)は,一高在学中から与謝野鉄幹の新詩社に出入りして俳句を詠んでいました。そこで鉄幹の寵愛する女流三俳人のひとり,3歳年上の増田雅子に熱烈プロポーズ。ちょうど鉄幹への恋心を断念した雅子を妻にしました。

鉄幹は与謝野晶子,山川登美子,増田雅子の三人を寵愛しましたが,三人とも鉄幹に愛された女性でした。その結果三角関係ならぬ四角関係のような状態だったのですが,鉄幹が晶子を妻に選んだことで,山川登美子は傷心を抱いたまま他の男性との結婚し,俳句界を去りました。雅子は失恋のまま日本女子大の学生を続けていました。儀太郎はその雅子に恋をして雅子の大学卒業と同時に彼は学生の身分で結婚したのです。

元の詩はコレです。とても熱烈プロポーズして叶った雅子との結婚3ヶ月前の作品とは思えませんね。暗い。
あゝ、くるし、このなやましさ、
おくつきの暗きかなたの、
後の世も續くをおそれ、
もとめ得ず、あはれ死さへも。

蕭々の詩は自由詩になってますが、拙訳の独訳は強弱格の三歩格で合わせようと試みました。

 

O weh! Welch eine Sorge
|X    |   X     X   X | X|
In Grabes dunkle Weite
 |X|  X |  X     X |  X X|
Furcht vor Jenseitsleben
 |X        X |  X    X |  X| 
Schenkt mir doch kein Sterben
|     X       X  |  X       X |   X    X|

糸の太陽たち

幾筋もの糸の陽光は
灰のように黒い荒涼に注がれている。
木のごとく
聳え立つひとつの思いが
光の音を手に収める:それは
人々のあちらで今も吟じられるその
詩だ

 

これは Paul Celan (1920-1970) の晩年の詩集 "Fadensonnen" からの詩。今日Berliner Philharmoniker が初演した曲のテーマがコレだったので、早速短い原詩を読んでみた。

 

Fadensonnen
Über der grauschwarzen Ödnis.
Ein Baum- 
Hoher Gedanke
Greift sich den Lichtton: es sind
Noch Lieder zu singen jenseits
Der Menschen

 

Celan は自由詩の詩人だ。だから韻律を形式で見ても意味がない。ただ長い文になっている3つの詩行の最後の単語 Ödnis, es sind, jenseits がそれぞれ2音節で [øːtnɪs], [ɛszɪnt], [jeːnzaɪts]と歯音の子音で終わっている。

ご存じの方も多いと思うが,Celan ——これは本名の Ancel をユダヤ系だと分からぬようにアナグラム化したものだが—— は両親をルーマニア国内の強制収容所で亡くしている。本人は強制労働をさせられた。当時ルーマニアナチスの枢軸国であった。

Celanは恐怖におののきおながら非業の死を遂げた両親や友人,同胞達と現代を結びつける媒介のような詩を書くのが特徴。この「糸の太陽たち」も現世の前に横たわる「灰のように黒い荒涼としたところ」に照射される糸のような幾筋もの陽光こそ,亡くなった者たちが暮らすあの世からのメッセージであり,荒涼とした中にも存在する「聳え立つ思い」がその陽光から「光の音」を捉えて自分の中に取り込んでいく。その音とは冥府で謳われ,吟じられているに違いない言葉のかたまり,すなわち Lieder (詩)なのである。あの世に逝ってしまった人々の光の音が,荒涼に注ぎ込まれることで冥土と現実界が結びついているのだ。死者を悼むのではなく,辛い現世にむけて死者達が温かい陽光の糸を垂らしてくれるのだ。生きた人々が死者を弔うのではなく,死者が生きている人々へ勇気を差し伸べてくれるのだ。Celan の詩は一方的な回想ではなく,積極的な二つの世界のコミュニケーション(対話)であることが素晴らしい。

2025年1月12日,ベルリン・フィルハーモニーホールで初演された Donghoon Shin 作曲
Threadsuns für Viola und Orchester(ビオラ管弦楽のための「糸の太陽たち」)のテーマとなったこの詩を読み,曲を聴きながら訳してみた。楽曲自体は現代音楽であるため,メロディーというよりも音の配置,感覚的理解が優先される。しかしCelan の原詩を見て分かるように原詩自体が自由詩であるため,寧ろこの方がしっくりと来る感じが私はする。印象的なのは最後の詩行

Lieder sind noch jenseits der Menschen zu singen

だろう。sein zu  不定詞は受動態+müssen/können の意味を持つが,ここでは詩の書き手の意志が反映されていると考えたい。つまり,

(詩が今も人間の彼岸では謳われているに違いない。)

と決意している。その詩こそが Fadensonnen であり,木の如く高く聳えるひとつの思いが手に入れた光の音なのである。「木の如く高くそびえるひとつの思い」とは何だろう?それは恐らく作者が会話している死者への思い,愛情ではないかと思う。

Celan の詩は半世紀以上前の記憶や,ほこりを被った回想をセピア色に染めて出現させることを拒み,生々しい有機物のような描写で出現させてくれる魅力にみちている。独特の言葉の選択が生きている証拠だ。

Ἀλήθεια

Wenn man gut auch oder böse,
Bleibt es sicher unveränd’rlich,
Dass wir immer Glück nachjagen.
Das muss wahrlich ἀληθής sein.

 

Trochäusでつくったこのドイツ語詩ですが,こんな意味の日本語を考えて独作しました。

 

真理
善人だろうが悪人だろうが
コレだけは確かで変わらない,
いつも幸せを求めてるって事。
きっとコレこそ「真理」に違いない。

 

面白いことに気づいたのですよ。
普通の人は勿論,たとえ悪人と呼ばれる人も,それが悪徳であっても,求めているのは悪徳を得ることでの幸福感なのですよね。

つまり,求めているのは幸福(Glück)即ち εὐδαιμονία なのだ。これが不変であることに気がついた。どのような価値観をしていようとも求めているのが「幸せ感」って不思議ではないでしょうか?これは「真理」だなあ,と思って詩作してみたのですよ。
ここで「真理の」を強調するためにドイツ語の wahr を使わずにここは哲学を思わせるギリシア語 αληθής を使ってみました。表題は「真理」を表す名詞 Ἀλήθεια にしました。