MEMENTO MORI AT CARPE DIEM

ποιέω καί ἑρμηνεύω

誕生の意味づけは難しい

DIE STIMMEN DER UNGEBORENEN

von oben

Hört, wir gebieten euch:
ringet und traget,
dass unser Lebenstag
herrlich uns taget!
Was ihr an Prüfungen
standhaft durchleidet,
uns ist's zu strahlenden
Kronen geschmeidet!

 

生まれていない者たちの声
(天上から)

さあ,お願いです,
輪になって抱き合いましょう
そうすれば人生の昼が私たちを
明るく輝かせるでしょう!
お二人はこの試練に
じっと堪えられた,
それは今私たちに
光彩放つ冠へと鍛えられた!

 

youtu.be


Richard Straussのオペラ Die Frau ohne Schatten (影のない女)の一節。


神の娘ゆえ影を持たない皇妃が、父カイコバートの神託に従い、影を得るために人間の世界へ降りてきて、染め物師バラクの妻から影を奪おうとする。しかし人々の一生懸命に生きる姿を見て奪うのを断念する。一方皇妃との間に子どもができず3年経ったために運命通り皇帝がすでに岩になっているのだが、皇妃の影略奪断念によって何故か岩から元の姿に戻る。そして皇妃は影を得る。実は二人はカイコバートの齎した試練を克服したのである。

試練を克服したこの二人に、天上から話しかけてくるのが、この一節を歌う「生まれていないものたち」である。この後、試練を超えた二人の間から彼らが生まれてくるのであろう。

作家 Hugo von Hofmannsthal (1874-1929)はRichard Straussの求めに応えて,現代版(1919年当時)魔笛を作った。それがコレ。確かにタミーノ=皇帝,パミーナ=皇妃,パパゲーノ=バラク,パパゲーナ=バラクの妻と対応しているし,ザラストロと夜の女王の合わさったのがカイコバートか?

試練を乗り越えて光明を得るのは同じだ。ただパパゲーノとパパゲーナの二重唱で沢山子どもを作るぞ!っていう部分が,この皇帝と皇妃に絡む「まだ生まれていない子どもたち」の場面になっているのか?

こういう話で出てくる子どもは幸福のシンボルだ。生まれたくない子どもという登場人物はまぁ出てこない。20世紀初頭迄のオペラの世界ではこういう価値観が正攻法なのだろう。

 

文学や演劇の世界でもどうかな?生まれたくない子どもが登場する作品あるかな?
お腹の中で(外に出たくない。出来ればずっと生まれたくない。)そんな意志を持つ胎児の話があったら読んでみたいものだ。

 

映画の世界ではエイリアンとかモンスター・パニックみたいに人のお腹を食い破って生まれる怪物(異星人)というジャンルがあって,アレは生まれることで見るものにショックを与える映像だ。出来れば生まれさせたくない気持ちになる後味の悪さが売りだ。

 

O, ich wäre nie geboren! (ああ,俺は生まれてこなければよかった。)は脱獄を拒む恋人グレートヘンを目にしてファウストが独白した台詞だ。生まれたことを後悔する程の強い絶望とは,具体的にどんな内容だろう?

自分の配偶者は確かにこの強い絶望に苛まれていた。それは自分の生まれるきっかけが,単に家に帰らない夫を家に帰ってくるように引き止めるために子供を設けたに過ぎなかったからだった。「私は生まれてこなくなってもよかったのよ。」自分自身が存在する理由が自分とは関係ない期待であったこと,それは確かに辛いだろう。

 

誕生は神秘的であると同時に様々な運命を背負って意味づけされる。その意味は決して肯定的なものだけではない。否定的なものもある。優生保護法によって誕生を取り消されるのも,また犯罪に巻き込まれて身籠もってしまった場合の処置も決してスッキリ解決とはなり得ない。祝福されない誕生と誕生したくても出来なかった命があるとすれば,それらを満足させる摂理はないのだろうか。

不死鳥の如く炎より生まれぬ——阿呆物語の口絵

冒険者
ジンプリチスムス

余は不死鳥の如く炎より生まれぬ。
宙を飛翔せるが,何も失われぬ。
余は海を渡り歩き,其処彼処(そこかしこ)陸(くが)を彷徨い行かん。
かかる周りに群がることどもを余は知らしめん。
悲しませるもの数多(あまた)あれど,楽しませるもの希(まれ)なり。
其は如何なりき?余が此の書物へしかと記したり。
これもて読者諸氏,余の如くさあ為すべし,
愚を遠ざけ,安寧に生くべし。

 

 

Hans Jakob Christoffel von Grimmelshausen (1622-1676)の有名な小説で,現在でも唯一読み継がれているドイツバロック小説『阿呆物語』の表紙の文章を訳してみた。以下原文。

 

Abenteuerlicher Simplicismus

Ich ward gleich wie Phoenix durchs Feuer geboren.
Ich flog durch die Lüfte? ward doch nicht verloren.
Ich wandert im waszer ich streifte zu Land.
In solchem Umschwermen macht ich mir bekannt
was oft mich bertrübet und selten ergetzet.
was war das? Ich habs in dies Buch hier gesetzet.
Damit sich der Leser gleich wie ich itzt thu,
entferne der Torheit, und Lebe in Ruh.

 

表紙の印刷ではあたかも散文のように,ベタで植字されているが,17世紀の文学で韻を意識しないなどほぼあり得ない。確かにリズムは整っていない。しかし韻は a-b-c-d と平韻になっている。よって訳文もそれに従った。

著者の Grimmelshausen は10歳で軍隊に誘拐され,以後30年戦争を兵士として遍歴した。30年戦争の終結と共に行政官として働いた。この『阿呆物語』は一見ピカレスク小説のようにみえるが,実は著者本人の理不尽な環境を生き抜いた冒険物語であり,読むにつれて寓話的になりドイツの『ロビンソンクルーソー』になっていく。

長い長い物語——岩波文庫で3巻ある——をこの表紙はたった8行で表現している。見事だ。

 

「間抜けづらして,ドジ踏んだら今度こそ尻っぺた腫れ上がるほどぶん殴るぞ!」

「なりばかり大きくなりやがって…」

「この助平小僧!お前と乳繰り合ったこの売女もろともお前を捻り殺してやる。」

本文は極めて粗野な言葉が使われて,10歳の時に意志に反して掠われて軍人として従軍しなくてはならなかった著者の悲哀が直接的にわかる。暴力を受けていない者が暴力を記すのとは違い,日常的に殴られ,罵倒され,生きるために略奪し,女を抱く毎日。人権などという概念は全く存在しない17世紀に,人として生きることに憧れながら鬼畜のような生活を余儀なくされた主人公の Bildungsroman である。様々な経験をして Simplicismus は最後に人から遠ざかり隠者の生活を選ぶ。

「さらば,人の世よ!お前は信頼出来ず,お前に期待出来ることは一つとしてない。お前の宿では過ぎ去ったものは永久に滅び去り,眼前にあるものは刻々と亡びつづけ,来るべきものはついに来たらず,ゆるぎなく見えるものも崩れ,砕ける日がないと見えるものも砕け散り,永遠につづくと見えるものも亡び,こうしてお前は死者の中の死者であって,私たちはお前の宿で百年の齢を重ねても一時間の生命をも生きることができない。」

——なんたる壮絶な嘆き,諦念の境地であろうか。生きづらい世の中をしたたかに生き抜いた主人公だからこそ,最後は隠遁する。今,様々な事情で生きづらいと苦しんでいる人々に,Simplicismus の物語は勇気を与える,否共感を与えるかもしれない。ピカレスク小説的悪行の数々は,善悪を意識して行為しているのではなく,地獄のような世の中で少しでも光明を見いだして生きるためのスパイスなのである。

著者は非常に教養があり,本文にはセネカの言葉やミトリダーテス王の話,古代羅馬の皇帝たち,古代希臘の哲人たちのエピソードが数多く語られる。そうした教養を以て有事の智恵と役立てる主人公。Sinplicismus の前には "Parzival" があり,Simplicismus の後には "Wilhelm Meister" が続く,とドイツ文学者の手塚富雄は考えたが,まさにその通りだと思う。

 

原文を掲げたが,文法も現代の標準ドイツ語とは異なるし,正書法も定まっていない17世紀のドイツ語ゆえ,以下に標準ドイツ語に直したものを掲載しておこう。

 

Ich wurde wie Phönix durchs Feuer geboren.
Ich flog durch die Lüfte? Wurde doch nicht verloren.
Ich wandert im Wasser, ich streifte durchs Land.
In solchem Umschwärmen machte ich mir bekannt,
Was oft mich betrübt und selten ergötzt.
Was war das? Ich hab’s in dieses Buch gesetzt.
Damit sich der Leser wie ich jetzt tu,
entfern die Torheit, und leb in Ruh.

 

君知るやかの国を(ミニヨンの歌より)

Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn,

Im dunkeln Laub die Gold-Orangen glühn,

Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,

Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht ?

Kennst du es wohl ?

Dahin! dahin

Möcht ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn.

ˉˉˉˉˉ|

この詩は『ウィルヘルム・マイスターの修行時代』に登場するミニヨンが最初に歌う歌。
格五歩格はシェイクスピアが盛んに使い、またミルトンは『失楽園』に、ダンテ、ペトラルカも使用した。
赤い母音が強格の部分。二音節以上の植物の単語,例えば Zitronen, Orangen, Myrte, Lorbeerをうまく選んでリズムを整えている。
3行目のblauは変化語尾-enを省略しないことで vom blau-en Him-mel wehtと弱強格を守る。
最終行のziehenと言う動詞は自動詞だと引っ越す,移り住むの意味がある。ここではミニヨンがかの国,イタリアへ一緒に行って暮らしたい,という願いを込めて歌っているので,単に「あなたと行きたい」ではない。「あなたと行ってそこで暮らしたい」なので,文語では平凡な「移」ではなく「遷」という漢字で,口語では「住みたい」という動詞で表現した。

 

(文語拙訳)
君知るやかの国を,檸檬花咲くかの国を,
色濃き葉陰に橙(だいだい)輝く
風ひとつ天(あめ)より凪(な)ぐかの国を。
銀梅花(ミルテ)密やか,月桂樹(ロリエ)聳ゆか?
君知るや,よく知るや?
彼の国ヘ,彼の国へ
愛(いと)しき汝(なれ)と,我遷(うつ)りてむ。

 

文語拙訳は五七調でリズム整えた。弱強の押韻は赤の語頭音を強とした。
最終行のみ,「なれ」に呼応して「われ」を出してみた。ここだけ弱強をずらした。
つまり音読時に「われ」のあと一息入れるように読む。
「きみるや(5) かのにを(5) れもんく(5) かのにを(5)」
「いろこきかげに(8) だいだいがやく(8)」
「かぜとつ(5) あめよりなぐ(6) かのにを(5)」
「みるてそやか(7) ろりえびゆか(7)」
「きみるや(5) よくるや(5)」
「かのにへ(5) かのにへ(5)」
「いとしきれと(7) れうつりてむ(7)」

 

口語拙訳はストレートな意味伝達を目指した。

(口語拙訳)
ご存知かしら、レモンの花咲き、
深緑の間から黄金のようなオレンジが光る、
青空からやさしい風が届くあの土地を。
ミルテは音もたてずに、ロリエは見上げるように茂っているのかしら?
あなたはご存知、本当に?
あの場所へ、あの場所へ
愛しいあなたと私は住みたい。

『欺瞞の妄想』より

Als ich mir mit Messer das Bein verletze,

Erschien aus der pechschwarzen Dunkelheit bella umbra.

“sanquis liquor extraordinarius est.” sagte sie.

Und sie leckte das Blut ab, mein Bewusstsein war weg…

Danach kann ich mich gar nicht mehr erinnern.

aus “error illusionis”

うっかり剃刀で肌を傷つけた瞬間,

漆黒の暗闇から bella umbra (美しき影)が現れる。

"sanguis liquor extraordinarius est." (血は特別な液体ですわ。)

ペロリと舐められた途端に意識がなくなった。

……後のことは覚えていない。

-- error illusionis (欺瞞の妄想)より--

運命論者に物申す

num oportet nos parere fortunae?
posse, non posse regit manus animae.

 

Müssen wir dem Schicksal gehorchen?
Können oder nicht, das soll Seele beherrschen.

我々は運命に従わなくてはならないのか?
出来る出来ないは魂の手が支配するもの。

 

 

【解題】
ラテン語で書いてみた。韻を合わせてある。
ドイツ語訳では Seele としたが,元のラテン語では namus amimae (心の手)とラテン語らしい表現にしてみた。つまり心が行為をするのであるから,その行為を成すための手が生えているという擬人化である。
運命論者は自分がするしないに起因せずにそれが運命だと決めつけるが,自分でできないと思ってしまえば出来ることでも出来ない自分に定めらてしまう。
やりたいことがあって実行する決意が揺らいでいるときに,少しでも出来ることから着手してなし崩し的に実行するのはそれ程リスクを伴わない。
精神衛生上よくないのは,したいことを何癖つけて我慢していること。我慢して良い結果が生まれた試しがあるだろうか?端からは人生の成功者に見えても,本人が諦念している人は自分を嘆いている。かの森鷗外だって軍医総監になり,翻訳をし,作品を書いて作家として成功したが,本人は「空っぽ」と自嘲していたという。軍人,官吏の森林太郎の立場に諦念してやりたいことが出来なかったからだろう。

Lebenswasser (命の水)

Will man immer kaltes Wasser trinken,

schmeckt es ohne Süße, Salz und Schärfe.

Was man auch nun isst und trinkt viel,

Nimmt man letztmals ein Glas Wasser.

’s ist ja Mahles A und O.

Als ob Lebens diese wären.

 

冷たい水がいつも美味いのは

余計な味が入ってないから。

何を食べても何を呑んでも

最後に頂くお水一杯。

それは食事のΑとΩ,

人生の其れも同じかも知れぬ。

 



【解題】

これは日本語を先に書いた。日本語のリズムは七七調を基本とした。
独訳するのにリズムを念頭に強弱格(Trochäus)にした。
基本は4歩格(Tertametron)だが,最初の2行は5歩格(Pentametron)になった。

Will man immer kaltes Wasser trinken,             (◡,◡,◡,◡,)

schmeckt es ohne Süße, Salz und Schärfe.     (◡,◡,◡,◡,)

Was man auch nun  isst und trinkt viel,            (◡,◡,◡,◡)

Nimmt man letztmals ein Glas Wasser.                (◡,◡,◡,◡)

’s ist ja Mahles A und O.                                     (◡,◡,◡,)

Als ob Lebens diese wären.                               (◡,◡,◡,◡)

愚かなる破壊指向者へ

自暴自棄から破壊に走りκαταστροφή (カタストローフ) を羨望せし者が居る。
若い時分にはそんな思い付きが格好良いと自惚れる。
何も出來ないから壊すしかないのだ,と本人は謂ふだらう。
しかし破壊した後の残骸を見て,諦念を強くする愚か者で在つて欲しくない。
それなら自己を貶めて終わる馬鹿でしかないからだ。
そんな思ひを咄嗟に記したらかうなつた。

死ぬ程煩(うるさ)いと謂ふのなら、
もう何も言はない,
何もしない。
其れがお望みだろ。
云い度いことがあるなら,
直接言へ。
Feigling sagt immer geheim ein großes Wort.

**

やらうと思へば
今からだつて
遅くはないし
今のお前なら自分本位に決して
出來る事だ。
なぜ挑戰しない?
Feigling fürchtet sich vor seinem echten Willen.

***

壊したけりゃ
お好きなやうに!
でも一番大事なのは
壊す事ぢゃなくて
再建したり
復活する事だ!
Feigling hat keine Lust und Mut, das zu machen. 

****

【解答編】

厳しく残酷ではあるが,

遺した過去は覆らない。

破壊し度いと思っても

過ぎ去ったものは隠せるだけ

自分の記憶(おもい)に刻まれてる。

それを重荷と背負っても

来たる未来は変わらない。

 

否定し学ばず,隠して恐れ,

あきらめ未来を迎えても

何の利益があるだろう。

思い出し学び,後悔し自嘲(わら)い,

望みて迎える気持ちを持てば,

これから何が来ようとも,

いくらかましというものだ。