MEMENTO MORI AT CARPE DIEM

ποιέω καί ἑρμηνεύω

ボードレール『悪の華』より冒頭の詩

愚かなしでかし,過ち間違い,罪も犯すし,欲は深い,

頭の中はそればかり,なぜかついついしたくなる,

いけないいけないと思っても,それがどんどん大きくなる,

まるで汚いあいつらが身体に蚤を増やすみたい。

 

ボードレール悪の華』より「読者へ」

 

 

La sottise, l’erreur, le péché, la lésine,

Occupent nos esprits et travaillent nos corps,

Et nous alimentons nos aimables remords,

Comme les mendiants nourrissent leur vermine.

 

Au Lecteur de “Les Fleurs du Mal”  par Charles BAUDELAIRE

www.youtube.com

 

原詩は強弱格の四歩格(Trochäus Tetrametron)なので,4行で一連が構成されている。全部で10連ある。試みた訳文は有名な,その最初の一連である。

(上記youtubeの朗読はこの韻律がよくわかる読み方をしている。)

 

悪の華』は上田敏訳を筆頭に,仏語詩の紹介者堀口大学訳,渋澤龍彦を指導した鈴木信太郎訳,三島由紀夫が激賞し渋澤龍彦が舌を巻いた齊藤磯雄訳など様々あり,最近では安藤元雄訳がある。その一方で独自に韻文訳を試み自費出版された平岡公彦氏のように,既存の訳業に問題を投げかける方もおられる。

どの翻訳を選ぶか――ボードレール『悪の華』の邦訳の誤訳について - 平岡公彦のボードレール翻訳ノート

 

フランス文学は専門外だが,仏語の韻律を日本語に移し込みながら,意味をいかに伝えるかを試みるには,やはり文語文よりも口語文の方が良いだろうと考えた。しかし口語といっても,生硬な逐語訳やリズムを破壊する和訳では詩としての存在がなくなってしまうとも思った。そこで意訳をするが,リズムと韻は残せるものを試行した。

ボードレールの淫靡でデカダンな雰囲気を口語で表すのは大変難しい。口語だとわかりやすい分明るくなってしまうからだ。

この詩は

 

「様々な淫靡で背徳的で退廃的な所業が人の魂を魅了し,その結果それを日常で行ってしまう。勿論そうすることで良心の呵責が意識されるが,それは甘美なほど背徳感を感じていき,巨大化していく,まるで乞食が体中で蚤を増やしていくように,養われて大きくなっていく」

 

そういうイケナイこころを描いたボードレールの読者への挨拶代わりの序文なのだ。

「見るな」といわれたら見てしまう,「ダメ」といわれたらやってしまう人間の愚かな行動様式,それが『悪の華』に目覚めさせる最初の認識過程である。この詩はまさにこの部分を語っている。

4行目の "Comme les mendiants nourrissent leur vermine." の les mendiants を大抵「乞食」と訳すものが多いが,今の時代,「乞食」といわれてそのイメージができるだろうか,私が青春時代を送った昭和40〜50年代には乞食はどこにでもいた。ホームレスというようになったのは昭和50年代以降のように思う,それまでは確かに乞食やルンペンなどと言っていた。しかしこの les mendiants を「ホームレス」としても体中に蚤がたかっているイメージは出てこないだろう。イメージとしては新宿あたりで今も暮らしているホームレスの方々の,いつ風呂に入ったかわからないような茶色く光っている肌,そこに纏うボロボロの衣服には必ず蚤虱の類いが巣くっているだろう,その汚れた,触りたくないと思う気持ちを出したかった。そこで「汚いあいつら」と意訳した次第である。